皆さん、こんにちは。ハスヌマゴロウでございます。
Follow @hasunumagoroこの度ブログサイトをリニューアルしました!
ちょうど1年前、2021年の8月にブログサイトを開設、試行錯誤、紆余曲折を経ながら1年以上「発信」を続けることができ若干の感慨を持っております。
そして「犬から人へ」アイコンも変化させ「note」「Instagram」「スタエフ」にもチャレンジしてまいりました。
さらなる飛躍をと考えた結果、当ブログサイトも「発信する男 ハスヌマゴロウ」とネーミングも改めまして、今後も発信を継続していきます。
最近、僕を知って下さった新しい方のためにこの場をお借りして、自己紹介をいたします。
子ども時代から高校卒業まで
僕は1969年12月に東京23区内で生まれ、2歳で千葉県のニュータウンへ移り、そこで育ちました。
子ども時代は今と違いオモテで遊ぶしか楽しみがない時代。それでも僕はゲームをしたり、ミニカーで遊んだり、テレビを見たりとインドアで遊ぶのが好きな子どもでしたね。
勉強もあまりできず、飛んだり走ったり、また、ボールを使う運動も苦手。これといった特技のない子どもでした。ただ「ドリフターズ」「欽ちゃん」「ビートたけしさん」などのお笑い芸人が大好きで、人を笑わせたり、賑やかにさせるのが得意な子どもでしたよ。
そして、中学校に入ってからは「数学」で躓き、その後の勉強に致命傷を負いました。より一層勉強が嫌いになっていきます。
僕らの世代は第2次ベビーブーム。同世代の人数が多く、受験戦争も激しかった。
中学卒業時には家庭があまり裕福ではなく、他に兄弟もいたせいか、親が決めた進路(職業高校)へ進学をしました。僕も受験で苦しみたくなかったので「大学進学」を中学卒時に諦めたんですね。
それで、本当に受験で苦しむことなく「職業高校」に進学することが出来ました。そこは公立高校で月謝も安く、家庭が「訳あり」の友達もいたり、高校の教育方針が「卒業後は就職する」とのことでしたので、大学受験とは全く縁のない場所。なのでのんびりした感じでした。
そのおかげもあってか僕は高校にいる時間よりも「アルバイト」をやってる時間の方が長かったくらいです。
アルバイトの他には「プロレス」「音楽」「純喫茶」「ゲームセンター」「パチンコ(おっと!💦)」と好きなことに明け暮れ、本当に楽しい高校時代でした。時効なのでこっそり申し上げると「お酒」「タバコ」を覚えたのも高校時代です。
社会人になってから
高校を卒業と同時に新卒で就職しました。僕が就職した1988年は「バブル経済」の真っ盛り。慢性的な人手不足もあってか、20代で年収1,000万円超えを目指す「ヤングエグゼクティブ」なんて若者がもてはやされ「転職でステップアップ」することが流行り初めてました。
その影響もあってか18から30歳までは「フラフラ」と一ヶ所に腰が落ち着きませんでしたね。ここにザッと僕の職務経歴というか転職記録をまとめてみましょう。
社会人のキャリアスタートは「営業マン」
最初は官公庁をメインの顧客とする大手電機メーカーの代理店である「工事会社」に就職。僕は高校時代の成績が悪かったので、技術職にはなれず、その会社で細々と取り組んでいた「商事部門」に配属され、営業マンとして社会人最初のキャリアをスタートしました。
その時のエピソードは「この▼▼」記事にもありますよ。
前述した通り時代はバブル経済真っ只中。当時「とらばーゆ」という言葉が流行語になるくらい転職ブームもあり、僕は「ワシはこんな名もしれぬ会社で終わる人材じゃないわ!」と全くの勘違いを犯します。それでも運よく(悪く)企業規模だけ見ればステップアップの転職に成功しました。
初の「とらばーゆ先」は「超ブラック」な食品メーカー
人生初の「とらばーゆ先」は「超ブラック」な「食品メーカー」でした。東証二部でしたけど、上場企業に転職できたので、僕は「気分上々」で乗り込んだのに。
ブラックな実例として記憶していることを申し上げます。
製造機械のトラブルで残業になると「オペレーターの整備怠慢が原因」とされ時間外賃金が支払われません。それに反発して、管理職(製造課長)を説き伏せ、残業報告書を提出したところ、その上司のスーパーパワハラ工場長が僕らの前に現れ「ふざけたことをするんじゃない!」とその報告書を目の前で「ビリビリ」と破かれたことがありました。
夜中まで仕事したのにね。
いまそんなことを起こしたら大変な「社会的問題」になりますよ。
また職場の衛生環境(粉塵対策)がよろしくなく、呼吸器(扁桃腺)にアレルギー反応が出るようになりました。
朝起きて「おや?喉がいがらっぽいぞ」と感じたらもうダメで「悪寒」「高熱(39℃程度)」に見舞われます。それが約2ヶ月に一度のペースで発症。すると3日間は全く動けなくなります。
それでもせっかくご縁があって入社したので、なんとか勤務を続けることが出来ないかと、会社に異動の相談をしましたが、一蹴されたので「こんなところ!やってられんわ!!」と発作的に辞めちゃいました。
しかし、やめた時はバブル経済崩壊後の悲惨な経済状況でした。バブル時代はひくて数多だった求人が「パタッ」と無風状態になっており。
3社目で「航空貨物業界」へ
そこから、本当に厳しい苦しい2ヶ月の転職活動期間(無職)を経て、やっとこさの感じで「航空貨物業界」に就職しました。
業界キャリアの最初は大手航空会社の貨物関連会社に就職し、主に輸入貨物を扱う部署に配属されました。
当時は携帯電話が普及し始め、同時にパソコンの通販が始まった時。ITバブルの入り口でした。海外からIT機器の完成品、通販用のパソコンの輸送が急増します。その他にもマザーボードやICとその部品、通信インフラ機器、既に航空輸送の花形だった中国や東南アジアの衣料品、世界中から生鮮食品も到着する。
とにかく毎日戦争のような忙しさ。
そして会社の内情は「健保」や「福利厚生」は良かったものの「黒に近いグレー」な感じでした。
具体的には交代勤務で夜勤もあり、夕方から明け方まで働くんですよね。そんな勤務体系で働いていると昼夜逆転して、生活リズムがおかしくなる。既に結婚もしていて、妻とはほぼすれ違い。お給料も安かったので「将来に不安を感じて」勤続8年30歳で辞めてしまいまいました。よく8年間耐えたもんです。
将来に不安を感じたことをやめた理由にしましたが、辞める直前の研修旅行で「香港」へ行き、現地の免税店で高級腕時計「オメガ」をクレカで購入。ボーナスでも足らず、元々辞めたいと思っていたので、退職金をその原資に当てようと考えたことがもう一つの原因です。
そして次はIT系企業の「営業」に転職しました。航空貨物の会社を辞める際にネットで知り合った、人材派遣(スカウト)会社から紹介された会社でした。
今度は「筋金入りのブラック企業」でしたね。
<Part.1>完 続く
では少し長くなりましたので、ここから先は記事を改めてお伝えすることにしましょう。
それではまた。